2012年3月13日火曜日

三国志の武将で不仲だと思う武将を教えてください。 ちなみに私は、曹操と遠紹く...

三国志の武将で不仲だと思う武将を教えてください。



ちなみに私は、曹操と遠紹くらいですかね?







曹操と袁紹のように、敵対する陣営の部将同士は、

基本的には不仲でしょうね。

関羽と張遼、徐晃はお互い認め合っていたらしいですが・・。

同一陣営の中で、不仲とされるのは、



【張遼と楽進と李典】

(正史に記されているぐらいですから・・。

親族の李乾が呂布への帰順を拒んで殺されていたことから、

呂布の配下であった張遼との間にはわだかまりがあったという怨念説。

古くから曹操に付き従ってきた李典が、

外様で敵将だった張遼が、

自分の上に付いたことが面白くなかったという嫉妬説。

張遼が、丁原→董卓→呂布→曹操と君主を3度も変えたことを、

詰ったという非難説、などあります。



李典「これは国家の大事です。問題は君(張遼)の計略がどうかという事ですぞ。

我々は個人的恨みによって公の道義を忘れはしませぬ。」

そこで軍勢を引きつれ、張遼と共に孫権を打ち破り敗走させました。

公私のケジメを付けるところは流石ですね。

(正史「李典伝」)



【張飛と曹豹】

(合わないだけ(張飛が一方的に)もしれませんが・・。)



【凌統と甘寧】

(演義のみの記載ですが、甘寧が凌統の父親凌操を殺したことになっています。

濡須口の戦いで仇である甘寧に窮地を救われ、和解します。)



【魏延と楊儀】

(軍議の席で言い争いになると、魏延は楊儀に剣を突きつけ、

楊儀が泣くということもあったといいます。)



【諸葛亮と魏延】

(一方的に諸葛亮が嫌っていただけのようですが・・)



【于禁と龐徳】

(新参者の龐徳と折り合いが悪かったようですね。

樊城での関羽との交戦で、初め龐徳は戦局を優位に進めていましたが、

于禁は功を焦ったのか撤退命令を出します。

魏の援軍はこの虚を突かれ水攻めを喰らって大敗し、

于禁は降伏し、龐徳は捕虜となるのを恥じて死にます。)



【郭図・辛評と審配・逢紀】

(袁紹死後、郭図は辛評と共に長男の袁譚を後継者に推戴しますが、

郭図・辛評と不仲の審配・逢紀が、

三男の袁尚を推戴して対抗し、これが袁氏の内紛につながってしまいます。)



別陣営で遺恨があるのは、



【関羽と龐徳】

(一方的に龐徳が対抗心を燃やしていたような気がしますが、

張遼が、関羽に対抗心を持っていつつ好感も持っていたのと違い、

明らかに関羽を憎悪の対象としている気がします。

関羽は、降伏しなかったことを褒めていますが・・。

蜀滅亡後、子の龐会は関羽の一族を滅ぼし、

仇討ちしたことになっています。)



【曹操と張超】

(張邈の弟。曹操の詩を貶してから、犬猿の仲になったという話があります。

張邈は、曹操と互いが死んだ時に家族の面倒を見る事を約束するほど、

仲が良かったといいますが、その後陳宮にそそのかされ呂布に付き、

曹操を裏切ります。)



【韓遂と馬騰】

(馬騰と韓遂は政府に対して兵を起こし長安を攻撃することもありましたが、

度々不仲になることもあり、馬超の母は韓遂に殺されています。

その後、馬超が、韓遂の左手を切り落としたと演義ではありますが、

そういう経緯からのフィクションですね。)








孟獲と諸葛亮ですかね~

カコウトンと関羽です。







不仲の武将はたくさんいます。例えば敵対勢力同士では君主も配下もたいていの者は敵対勢力の武将が嫌いでしょう。ですので、私が印象に残った不仲の武将のみ記述します。





丁原と呂布

呂布は董卓の誘いにのり丁原を殺害して董卓に帰順してしまう。





董卓と呂布

呂布は小さな過失から董卓に殺されかけたことがあり、それ以来呂布は董卓に恨みを持つようになり、王允と共に董卓を殺害した。





董卓と王允

董卓の専横を憂いた王允は呂布と共に董卓を殺害し、董卓の一族を皆殺し、董卓派と見られた官僚らを粛清した。





呂布と張飛

呂布は張飛と曹豹の争いに乗じて劉備の本拠下邳を奪い取り、徐州の刺史を自称したため、張飛は激怒した。





曹操と朱霊

劉備が袁術討伐に見せかけて曹操を裏切り徐州へ逃げたとき、劉備を朱霊が監督することになったが、劉備に騙され手ぶらで帰ったため、曹操を激怒させた。





審配と郭図

ことあるごとに意見対が立し、官渡の戦いでも作戦面で衝突した。





逢紀と田豊

逢紀の讒言が原因となり、田豊は獄死した。





袁紹と田豊

田豊は袁紹に様々な献策をしたが聞き入れられないことが多かった。また、田豊は剛直な性格で歯に衣着せぬ厳しい発言をしたため、袁紹に疎まれた。





袁尚と袁譚

袁尚は三男でありながら後継者となり、長男の袁譚が激しく抵抗した。結果勢力を二分することになった。





孫権と張昭

孫策の死に際に孫権のことを託された張昭は、孫権に讒言を続けたため疎まれた。





関羽と傅士仁・糜芳

糜芳と傅士仁は関羽と仲が悪いのだが、人材の適材適所が出来ない劉備のミスで関羽のいる荊州に駐屯し、守備を任された。しかし、彼らは後方支援に全力を尽くさなかった。そのことに関羽は激怒し、二人にパワハラを繰り返した。





関羽と孫権

関羽は孫権から関羽の娘に、彼の息子との婚姻の申し入れをむげに断ったり、足りない兵糧を呉との国境で略奪したりして孫権を激怒させ、呉との友好関係を壊す原因を作った。





孟達と劉封

元々二人は仲が悪かったが、これも劉備の人材の配置ミスで同じ領地に駐屯することになった。劉封は関羽に援軍を出さなかったことを後悔し、孟達を攻めるも、逆に敗走した。





諸葛亮と魏延

諸葛亮はむげに魏延を嫌い続けたが、魏延は諸葛亮に重用され続けた。しかし、諸葛亮は戦で多くの功績を残している魏延の進言も無視した。





曹操と揚修

定軍山の戦いが膠着すると、曹操が漏らした「鶏肋」の意味を揚修は退却と勘違いし、軍規違反となった。





劉備と馬謖

劉備が死ぬ間際に、馬謖は口だけで実行が伴わないから重用するなと諸葛亮に忠告した。





曹丕と曹植

曹丕は次男であり、曹植は四男である。魏国太子の座を争い、その結果曹丕が魏王を継いだ。



曹丕と曹叡

曹叡は曹丕が甄氏に死ぬことを命じ、曹叡はそのことを恨んだ。



曹丕と甄氏

甄氏は悲嘆し曹丕に対して恨み言を述べ、その結果曹丕は甄氏に死を命じた。





魏延と楊儀

魏延と楊儀仲が悪く、は軍議の席で言い争いになると、魏延は楊儀に剣を突きつけ、楊儀が泣くということもあったという。また、諸葛亮が死んだときには、魏延は楊儀が反逆したと劉禅に上奏したが、楊儀も魏延が反逆したと上奏した。しかし、董允と蒋琬が楊儀の肩を持ったため、結果魏延は殺された。





鄧艾と鍾会

功を競うあまり、互いに陥れようと画策した。







馬勝と曹操

曹操が皇室を敬ない事から後に一族巻き込んで戦争に発展



諸葛亮と魏延

諸葛亮からしたら生理的に無理だったそうです



袁術と袁紹

互いにムカついてたらしい



劉表と孫権

親子三代にわたる因縁







董卓と呂布、最終的に董卓が呂布に殺されました。

張飛と呂布

周瑜と程普(一方的)、程普が周瑜の能力を認めた後で仲が直しました。

甘寧と凌統、甘寧が凌統を助けた後で仲が直しました。

曹操(一方的)と楊修、最終的に楊修が曹操に殺されました。

曹操(一方的)と孔融、最終的に孔融が曹操に殺されました。

楊儀と魏延

張遼と李典

龐統(一方的)と諸葛亮

周瑜(一方的)と諸葛亮

関羽、張飛(一方的)と諸葛亮、孔明の策が見せられた後仲が直りました。

魏延と諸葛亮

司馬懿と曹真(一方的)

曹丕と于禁、最終的に于禁が曹丕の諷刺によって死にました。



覚えてるのが以上です、他にも沢山あるはずです。







曹操と、陶謙も仲悪いね。父親殺したし。陶謙の部下が殺したからな

関羽、張飛と呂布。

馬超と曹操。父親殺したし。曹操が殺したからな

公孫讃と袁紹。

このぐらいかな、ふと思いつくのは。







有名どころですが孔明と魏延ですね。

あと孔明と周瑜です。

どっちも孔明に楯突いたために破滅してしまいました。

演義での話ですがね。

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