三国志の涼州(西涼)について質問
薫卓が治めていて、その後、馬騰が治めたわけですが。
薫卓が上洛して、呂布に討たれた後に馬騰なわけですが・・・。
薫卓が治めてる時は馬騰は洛陽で役人でしたっけ?
馬騰は自分の意思で西涼に赴任したんでしたっけ?
薫卓も馬騰も出身は西涼なんですかね?
涼州って董卓や馬騰が治めてたんですか?私は反乱が絶えない治めることができない土地だとばかり思ってたんですが。馬騰や韓遂の記述を見ると涼州刺史は韓遂・辺章に殺されるし董卓は反乱討伐にやる気ないし、とても「治めてた」とは思えないです。馬騰もあくまで関中に割拠する軍閥の一員という印象です。「影の支配者」という意味ではむしろ韓遂のほうが合ってるかも。
馬騰は扶風出身、董卓は隴西出身なんで西涼出身と言っていいかと。馬騰が中央に出仕したのは長安遷都後です。出仕というより軍を率いて赴いたという感じですが。自分の意志ではなく多分董卓の政治工作の一環です。その前年に王國(黒幕は韓遂ら)が起こした反乱を皇甫嵩に鎮圧されてるので逆らえなかったのかも。ちなみに馬騰もその反乱に加担してたらしいです。董卓死後も、しばらくは董卓勢力との同盟関係は続いています。まぁ結局は反乱を起こして李傕らに負けるんですが。馬騰が中央で役人になったのは曹操政権になってからだったと思います。
・補足について
さぁ、面識があったとは書いてないんでそこまでは分かりません。ただ一応一軍の主である馬騰を呼びつけて会わないってことはないんじゃないかな。長安の後方で反乱を起こされたら洛陽で足止めを喰らってる孫堅軍が攻めてきかねません。懐柔するためにも直接会って官位を与えたぐらいはしたと思いますが。
0 件のコメント:
コメントを投稿