2012年3月21日水曜日

三国志の最強最悪の武将:呂布は養父の丁原や董卓を裏切り、曹繰や劉備以外の武将...

三国志の最強最悪の武将:呂布は養父の丁原や董卓を裏切り、曹繰や劉備以外の武将からも毛嫌いされていたようですが…、最期には曹繰と劉備に 亡ぼされたようですが…、
やっぱり性格が災いしたからですか?







主君を裏切るという行為は最低のことですからね。

何度も裏切ってたら、信用も失い、嫌われるでしょう。

性格というより、本質が腐ってたのだと思います。

それに、部下の意見より、女の意見を重用したりする男でしたから・・・








いや、三国志演義はあくまで創作ですから一概にそうとは言えないと思います。

丁原はともかく、董卓を殺した理由は、ある時、呂布は短気な董卓から手戟を投げられた事があり上手く直撃を避けて無事だったものの何もしないでじっとしていれば殺されていた事に衝撃を覚えます。「あの人は本気で殺す気だった」。

それを王允に話すと「そんなに心配なら殺してしまえ」とそそのかされて董卓を殺害します。(美女を使った計略の話は創作です)

そもそも曹操や呂布と比べて勤皇思想を持ち合わせていないのはむしろ劉備の方ではないかという見方もあります。

劉備はしょっちゅう主君が変わりますが、あちこち動き回っています。三国志演義では不可抗力の様に描かれていますが、なんだかなあと思います。



三国志の嘘>やくざな劉備玄徳

http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Jupiter/1750/gunji.html#kino...







何をもって「最強最悪」などとおっしゃるのでしょうね?物語で作られたイメージだけを鵜呑みにして、歴史に名を遺した人物を軽々しく非難するのはどうかと思いますが。



呂布は確かに丁原を裏切って殺しますが、正史『三國志』呂布伝を見る限りは別に養子になった形跡はなく、武勇を認められて仕えた割には与えられたのは「主簿」という事務的官職です。呂布としては自分の望む仕事(軍事的役職)をやりたかったんじゃないでしょうかね?

董卓の元では身辺警護に抜擢されており、董卓は父と呼ばせていますから親子の契りはあったかも知れませんが、当時は官職に取り立ててくれた人物を親と同様に敬い一生仕える…という慣習がありました。「門生故吏」と言いますけども、弟子は師匠を、取り立ててもらった者は取り立ててくれた上役を「父」と呼ぶのは当時の常識みたいなもんです。

呂布が董卓を殺したのは、ひとつには王允の計画に抱き込まれたからであり、抱き込まれたのは呂布と董卓の間にいさかいがあって、関係が悪化していたからに過ぎません。



ちなみに董卓死後は頼ろうとした袁術に門前払いを食らわされ、袁紹には受け入れてもらった恩として黒山賊の討伐に多大な貢献をしています。しかし袁紹に暗殺されそうになって出奔しています。

曹操とエン州を争ったのは陳宮と張バクの謀略に巻き込まれたからであり、劉備の徐州を奪ったのは当時の呂布・劉備・袁術の微妙で複雑な力関係の成せるワザです。



呂布は別に自分の思うままに周囲の空気も読まず裏切りを繰り返していた訳ではなく、その時その時の状況で自らが生き残り、あるいは勢力を拡大するために様々に考え苦労していた訳です。

武勇にどれほど自信があっても、大きくはない勢力で中原の最激戦区のど真ん中にいたのですから、生き残るために必死だったんでしょう。まあ、結局生き残れませんでしたがね。







呂布は中国人じゃないから、モンゴル出身、董卓殺害評価してやりましょう、劉備は完全に逆恨み、チンピラを城に残したら酒盛りし狼藉の限り城無くし、その後、恩のある曹操を裏切る、呂布は大耳野郎は必ず裏切ると言ってましたね、後は後世の人がどう評価するかですよね。

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