【三国志】呂布にはなぜ当時屈指の武将達が集ったのですか?
合肥の武神こと張遼、その張遼に勝るとも劣らない高順、曹操飛躍の礎ともなった当代屈指の知将陳宮、張邈……知れば知るほど夢のような布陣です。
しかも、呂布は決して彼らに好待遇を与えていたわけではなく、高順や陳宮などはかなり酷い扱いを受けていたようです(お互いの仲が悪いこともありますが)。
二度の親殺しの悪名もあり、人材を使いこなすことができたとは言い難い呂布に、どうしてこうも人材が集まったのでしょうか?
屈指の武将たちがそろったのは下の方のおっしゃる通りです。
しかし呂布は決して部下をかわいがっているとも思えず、主君を裏切り、都合が悪くなると同盟者の王允を見捨てて逃亡。
敵対していた袁術を頼るという恥知らずな行為を行うも袁術に援助を拒否される。
そして今度は袁紹を山賊の討伐を手土産に頼るも、態度が傲慢だったので叩き出される。
流浪の身になると陳宮らと共謀して曹操の留守を襲い、戻ってきた曹操に撃退されると今度は劉備を頼る。
それを受け入れてくれた劉備でさえ留守にした隙を狙い城を制圧。
最後に曹操にとらえられた後も、この後におよんで命乞いをする。
いきあたりばったり人生であり、厚顔無恥を地で行くような性格の呂布になぜここまで部下や兵士がついてきたか、という事も疑問だと思います。
理由の一つとして、まず当事の中華が儒教の国と言う事があります。
裏切りと背信が当たり前の乱世ですが、だからこそ最後まで主君に従うのが高潔であるという考えも根強くありました(呂布や法正のようにそんな考えがない、もしくは希薄な人物もいますが)
そして高順や張遼は高潔な人物でした。
もう一つの理由として、呂布は性格はともかくとして武芸に秀でていた事は三国時代屈指であり、常に最前線で戦っていた事もあります。
個人が尊重される現在でも、戦場に赴く兵士は決して安全なところにいる司令官の為に命をかける事はしませんが、同じ戦地で同じ釜の飯を喰らい、そして常に部下とともに戦う上官の為ならば命をかけることもあります。
兵士からしてみれば時代の流れはわからなくても、自分がついて行っている将軍が目の前で鬼神のごとく戦っているのを目の当たりにすれば、とりあえずこの将軍について行けば大丈夫だと感じ、またしたがった武将たちも同じ気持ちを抱いたのでしょう。
人望も、高潔な思想も高い野心もなく、己の目先の利益だけで生きているだけの人物に、武力だけでこれだけの武将たちや兵士達を従えたことこそが、呂布がこの時代最強と言われるゆえんでもあると思います。
まず注意を要する点。ことの始まりは、張邈に陳宮が接近して、
その後呂布を招いたということです。
張邈は諸侯連合にも参加した名士で、この三者の関係は
理解しやすいですね。
このあと張邈は劣勢になり、呂布らとは別離。徐州で呂布軍
誕生です。
呂布と張遼は、丁原が見出して家臣にしたことがわかっています。
もし高順も似たような経緯なら、北方でもまれた丁原の武官と
しての感触が、彼等を引き合わせたのかもしれません。
そして、素行はあれだけど実力はある呂布軍を引き入れて、
その知恵袋となった陳宮の観察眼です。
よく仕える主を間違ったとも評されますが、乱世に乗り出そうとした
闘志は評価できます。
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