2012年3月9日金曜日

三国志の呂布について・・・

三国志の呂布について・・・

僕は中学のころから三国無双というゲームにはまっているんですが、そのゲームの中で一番強い武将が呂布なんです。

僕は本当に呂布が強かったのか疑問に思って三国志に詳しい友人にそのことを聞いてみたんですが、その答えにはビックリしました。

当時、呂布は一族から「千人殺しの呂布」と呼ばれていたそうなんですが、その呂布が千人はおろか百人も殺していないと友人は言うんです。呂布という人物は強かったそうなんですが、、、。これって本当なんでしょうか?友人は歴史本とかで見たらしいんですが、パソコンで調べても呂布のことについての説明がアヤフヤなんです^^:



そしてもう2つ質問があります。これも友人から聞いた話です。

1、呂布が頭に付けている触角らしきものは、その触角(?)の長さで自分の強さを主張していたらしいんですが本当ですか?

2、関羽の武器(ナギナタ)、青龍刀ってありますよね?でも当時はナギナタのような弧を描くような刃物は作れず、関羽は戟や槍を使って戦っていたというのは本当ですか?



質問多くてすみませんm(_ _)mその分コインのほうも多くしておきますので解かるかた、回答お願いします。







ゲームや小説のほとんどは、実際の三国志があった千年も後の、歴史小説「三国志演義」と言う本を元にしています。まずはそのことを頭に入れておきましょうね。



呂布が強かったのは本当らしい、です。というのは当時の記録である「正史三国志」には、呂布の戦歴についてあんまり詳しく記されていないからです。

ただ、「個人的武勇」と言うよりも、彼の率いた軍団の強さであったようです。彼は内蒙古・太原出身で、騎馬部隊を操るのが得意だったようです。

当時中原(中国の中心部)は、「歩兵主体」で、突破力のある騎馬部隊には苦労したようです。曹操も何度か呂布に敗れ、小沛城に閉じ込めておいて、「水攻めで騎馬封じ」して勝利しています。

小説はちょっと、オーバーですね。



小説の扮装は、三国時代より遥か後世の宋代のファッションを元にしています。ですから呂布のあの冠も、実話ではありません。京劇など、演出する際に、各キャラの個性をハッキリさせるため、様々なデザインの冠や扮装、武器を使っているんです。

実際の鎧・かぶと・武器のデザインは学研の群像シリーズ「三国志」や新紀元社の「三国志の英雄たち」と言う本にイラストが載っていますから、興味があればどうぞ。ほんとのファッションは、凄い地味ですよー・・・。

関羽の青龍エン月刀も、その類、「劉備の”双股の剣”」「孫堅の”古錠刀”」「張飛の”丈八蛇矛”」なんかの類と同じです。

そもそも、戦場で他人とあんまり異なる武器を使ってると、壊れたりした時に困りますからねー(笑)。



光栄の「爆笑クイズ三国志」と言う本に、「作って20年以上現役、なんて丈夫な薙刀だ。楼桑村の鍛冶屋はよほど達人だったと見える・・・」と皮肉ってましたね。








リョフの部隊は勇猛で知られ騎馬の扱いに長けていた、そのことから「殺し」の異名がついたのだと思います。

1はコウエイのデザイナーさんが以前雑誌で「スケールをでかくしたい」「強さだけでなく外見にもインパクト」を与えたいとのことから今の衣装になったようです。

2は当時の武将は槍が一般的で演技などは兵士たちとの差別化でデカイ、かっこいい、つようそう、な武器が多く出ます。



でもリョウの実はですごいのもあります。



袁術は武将紀霊らに兵三万を率いさせて再び劉備を攻め、劉備は呂布に救援を求めた。呂布軍の諸将は「将軍は常に劉備を殺そうとしていたのですから、袁術に手を貸すべきです」と救援に反対したが、呂布は「いや、もし袁術が劉備を撃破すれば、北の泰山の軍閥と連携することになり、わしは袁術らに包囲されてしまうことになる。救援せざるをえない」と主張して、劉備の陣中に介入した。紀霊たちは呂布が現れたと聞くや兵を纏めて攻撃を中止していたが、呂布は両陣営の将を安屯に集めさせて和解させようと図った。



呂布は、「劉備はわしの弟だ。弟が諸君らのせいで困っておるので、助けに来たのだ。わしは合戦を好まず、和解を喜ぶ性格なのだ」と言い、軍候に命令して戟を陣営の門に植えた。「わしが戟の小支を射るのを見よ。一発で当たれば兵士を解いて去れ。できなかったらこのまま決戦せよ」と言って呂布が放った矢は見事に命中し、驚愕した諸将は皆引き揚げていった。



しかも話によると「天の声だから酒を飲んでも当たる」といい飲酒していたらしいです、凄いですね。

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